・12月
 最後の調整期間だというのに失敗が多かった。11月28日に雨の中を走り、30日から風邪気味となってしまった。6日の奥多摩駅伝までには治ったが、その後再度発熱。11日頃は医者通い。91年だったら、奥多摩駅伝の次の週が防府だったので、完全にアウトの状態だが、92年は開催がいつもの年と同じ第3週に戻ったので、助かった。本来なら12月は1000m以下の短いインターバルを何回かやって、スピードを付けておきたかったが、実際は体調不良でほとんど出来ず。最後の調整練習1000m×2本も3分07秒と低調。好調な時は、この時点で3分を切って走れていたのに。最終調整は失敗したが、10月と11月の2ヶ月で、1100q走ることが出来たのでうまく走れれば、2時間35分では走れるだろうと思っていた。最後の練習日に田園クラブの堀さんに「2時間35分位では行けると思う」と言ったら「小野里さんには2時間30分を切って東京に行ってもらいます」と切り返されてしまった。朝ジョグをしていると、よくアトミクラブの山口正春君と会うが、彼にも「来年東京を一緒に走ろう」と言われていた。12月に入って風邪さえひかなければ、自分でも2時間30分を狙いたかったが、最後のつまづきで消極的になってしまった。それでも、9月から12月の練習は点数をつければ80点位。量的には充分満足出来る結果だと信じて防府へ向かった。

12月の練習内容 距離 距離
Jog55'    風邪気味 10 17 Jog55' 10
Jog55 10 18 Jog55'' 10
Jog55'/Jog80' 25 19 Jog40' 防府入り
Jog55'/Jog75' 25 20 防府読売マラソン 2゜35’38” 80位 42
Jog70' 12 21 Jog45'
奥多摩渓谷駅伝Bチーム5区8.3km
                 (27'23")
24 スプリット(自己計測)
 
 5km      17’38”
10km      35’13”  17’35”
15km      53’00”  17’56”
20km    1゜11’08”  17’59”
25km    1゜29’03”  17’55”
30km    1゜47’42”  18’39”
35km    2゜07’09”  19’27”
40km    2゜27’04’  19’55”
GOAL    2゜35’38”   8’34”

天気 雨のち曇 気温10℃ 湿度75% 風1、5m
Jog65' 12
Jog75' 15
Jog55'/Jog40'+1000×5
          (3'16"〜3'04")
22
10 Jog55' 10
11 Jog80'        走り終わって発熱 15
12 Jog80'        風邪気味 15
13 Jog80'          〃 15
14 Jog55' 10
15 Jog55'/Jog65' 22
16 Jog45'+1000×2+Jog30'
    (3'07" 3'07")
14

・12月19日(土)
 朝7時07分初ひかり3号で防府へ、広島でこだまに、徳山で山陽本線に乗り換え午後1時過ぎに防府着。前日のうちに受け付けと健康診断を済ませ、プログラムを見て明日のペースメーカー探し。防府のゼッケンはこの1年のベストタイムで決まり、一般参加は51番から。91年東京を一緒に走った九州の牟田口さんや滋賀の西原さんは80番台、私は267と大きな番号。この1年のみんなの働きが一目でわかってしまう。健康診断の時に西原さんと話をしていたら、93年東京は標準記録が2時間32分だと教えてくれた。それなら5q18分丁度で押して行けば何とかなりそう。このペースで引いてくれそうな人をプログラムから探しているとゼッケン139に少し歳はいっているが、絶好のうさぎさんを発見。毎度おなじみの岡山の河井さん。彼のペース走なら絶対信頼出来る。明日は河井先生徹底マークで行ってやると決心。あわよくば東京狙いの一発勝負と決め込んだ。宿舎はD51−ACの鈴木徹さんと同じビジネスホテル。もう1人田園クラブ注目の新人坂口君は風邪のため不参加となった。ホテルでは、徹さんとテレビで大相撲この1年を見ながらビールと甘いものでカーボパーティ。徹さんのマラソン完走40回と私のマラソン復活の前祝?として、早々に床についた。

・12月20日(日)
 朝目が覚めると外は雨。今までマラソンで雨に降られたのは、9月の玉造と4月のつくば・掛川と温かい時ばかり。91年東京では途中で雨がぱらついたことはあるが、寒い季節に雨の中を走った経験はほとんど無い。今回は事前に天気予報で雨は覚悟して、着替えは充分持っていたがナゼか傘を忘れてきていたことが気になり「何か失敗しそうだなー」と思いつつ会場へと向かって行った。
 早めに防府陸上競技場に入り、いつものように顔見知りの人を見つけて世間話。そのうちに河井先生を見つけ今回はよろしくお願いします、と丁寧に挨拶。でも河井先生はなぜか「ウーン」と消極的。まあスタート前はみんな緊張しているから、レースが始ったらしっかりついて行けばいいさと思い、この時はあまり気に留めなかった。
 レース開始まで雨は止まなかった。あまり寒ければランニングタイツで走ろうかと思ったが、気温は10℃と冷えこまなかったので、ランニングとランパンの正装。濡れて体が冷えないようにと、念の為にワセリンをベタベタに塗ってレースに挑んだ。12時02分定時に650名のランナーと共にスタート。参加人数は佐波川沿いのコースの時の半分になったが、トラックでこの人数は大迫力もの。トラックを出るまでは転倒などしないよう無理せずゆっくりスタート。1.5q位の所で河合さんい追いつき、番手にはまりペースに乗った。5qは17分38秒と絶好の入り。「ヨーシ、このペースで連れて行ってネ、頼みますよ」と河井さんの背中を見ながら走っていたが、8q付近で河井さんが私に並びかけて来て一言「今日はワシはこのペースでは持たん、悪いが先に行ってくれ」そしてペースを落としてしまった。レース序盤にして早くも目標を失い、半ばヤケッパチの自力走行に切り替え。15q過ぎて雨が止み少し走りやすくなったが、24qから31qまでが向かい風が強く体も冷えて体力を消耗した。濡れた道路の白線の上を走るとクツが滑る感じがしていたが、その影響と冷えのせいか30qあたりからふくらはぎが痛みだし、ける事が出来ず重心が前に出なくなってきた。35qを通過した時点で東京はあきらめ、後は村尾さんの二の舞とならないよう最後まで走りきることに全神経を集中「足よケイレンしないで!」と願いながら陸上競技場に帰ってきた。

・レースを終えて
 今回の私の成績はどう評価されるのだろう。私のマラソンベスト記録(92年当時)は表のとおり。防府に行く前、他の人に一番言われたのは東京の出場権を取ってくること。これは自己ベストを狙える状態でなければ、かなり難しい。東京出場を決める事が出来た89年、90年の防府は気象条件が良く、ペースの合う人もいたので、走りやすかった。今回は最終調整の段階で体調を崩したり、レース当日が雨、たのみのうさぎさんにもふられて急遽自力走行を強いられるなどアクシデントが多かったのに91年玉造以来15ヶ月振りにうまく走れ、記録も自己6番目だったので、自分としては合格点を与えても良いのではないかと思っている。しかし一つ気になったのはベストタイムから6分05秒遅れていること。過去の記録を見ると2時間35分〜36分が多く、このくらいが自分の安定値かとも思えるが、正直な気持ちとしてはベストタイムから5分以内の記録で走りたかった。
 この次のマラソンは93年2月の別府大分。今度は防府からわずか49日しかないが、今回課題として残したベストから5分以内の記録を目指して走ろう。別大は今度で5回目、コースもよく知っているし、知っているランナーもたくさん集まって来る。別大は防府以上にうまく走って自分の完全復活を証明しよう。

92年当時のマラソン記録BEST10
2時間29分33秒 防府 90年12月
2時間31分53秒 防府 89年12月
2時間34分03秒 勝田 86年 2月
2時間35分11秒 別大 89年 2月
2時間35分21秒 玉造 91年 9月
2時間35分38秒 防府 92年12月
2時間35分57秒 別大 88年 2月
2時間36分13秒 東京 91年 2月
2時間36分24秒 玉造 90年 9月
10 2時間36分35秒 東京 90年 2月