D51-AC
のみなさん達


楽しく走ることを僕に教えてくれた人達

陸上競技を本格的に初めた81年6月〜86年3月までは
会社の陸上競技部にお世話になって練習していた。
陸上競技部は、会社では「サークル」扱いだったが、
私の在籍していた5年間に全日本実業団駅伝に出場3回を果たすなど
東日本実業団連盟の中では中堅所の実力のあるチームであり
「サークル」とはいえ規律は厳しく練習計画もかなりハードだった。
86年4月に会社の競技部が「サークル」から「シンボルクラブ」に
昇格するとともに実力の無かった私は競技部に残ることは出来ず、
改めて一市民ランナーとして走り始めた。

そんな私を拾ってくれたのがD51−ACの仲間達だった。
D51−ACも市民ランナークラブと言いつつ競技志向のかなり高いクラブで、
千駄ケ谷タータン等で練習している姿を見ていたのでスグにみんなに馴染む事も出来た。
私の競技部時代の練習スケジュールをみんなの実力に合わせてアレンジし
週2回のトラック練習や高尾〜陣馬クロカン練習も一緒にこなし
駅伝は奥多摩・奥武蔵だけでなく、遠く茨城の土浦つくば駅伝にまで遠征していた。
個人レースはロードレースを主体に全国津々浦々を走りまわり、
みんなが自己新記録を次々と書き換えていたので楽しかった。

市民マラソンランナーの大きな目標の一つに別府大分毎日マラソンがあるが、
D51−ACから、私の他にも2回の別大出場を果たしたランナーが出たことは、
みんなで楽しく練習を重ねた成果だと思う。

代表格だった土居さんは大変な酒豪で練習後はよく土居さんに内臓を鍛えてもらった。
彼には、試合の前日でも普段と同じ生活をしなければいけないとの持論があり
試合前でも酒の量を減らすよう事などはせず
そして試合当日はキッチリ結果を出していた。
私も見習おうと土居さんの調整方法に挑戦したが・・・言訳のし方がうまくなったのみ?

徹さんは30歳過ぎてジョギングを初め徐々に力をつけてきた人だった。
当時の別府大分の参加標準タイム2時間50分を目指し黙々と走り
見事2時間49分台のタイムを出したのだが
無情にも翌年から別府大分の標準タイムは2時間45分になっていた。
徹さんはそれでも諦めず挑戦を続けた。
12月の防府読売マラソンに一緒に行った時、徹さんは
「この先の関門海峡を越えて九州でマラソンを走りたい」と言っていた。
2時間46分台までタイムを縮めたのに、夢は叶わず。さぞ心残りだったろう・・・。

楽しかったD51−ACもクラブ員の高齢化に勝てず自然消滅。
今は年に数回集まり昔話を魚に酒盛りするくらい。
そう言えばD51−ACの「AC」は「アルコール・クラブ」だったっけ?

いつの日かD51-ACの黄色いユニフォームが復活せん事を・・・


2005年7月 少し書き換えをいたしました