星薬大陸上部と川端さん。後輩から一言

2002.11.25 須藤靖彦

 星薬科大学陸上競技部にて長らくお世話になった一年後輩の須藤と申します。
思い起こしてみれば在学中も社会人となってからも迷惑ばっかりかけ通しで、なんの恩返しもできなかったというのが素直な気持ちです。
学生時代の川端さんは口下手で、子供っぽい外観で、なんでも話せる先輩というイメージで、しょっちゅう生意気な口をきいた僕を良く呆れながらもたしなめてくれました。
最初は野球部だった僕でしたが、僕が三年の夏に平和台で陸上部の試合があると聞かされ、そのとき単車に乗っていた僕は、陸上部で単車で九州まで行くことを企んでいた某先輩にそそのかされ(神聖な試合に単車で遊び半分で行くということにも川端さんは批判的だったようですが)、四日かけて博多入りしました。陸上部の宿は日本旅館であって、予約していない我々も紛れ込むことは充分可能だったのですが、真面目な川端さんに門前払いを食ってしまいました。
今思えばまさに川端さんの真骨頂だったのでは?陸上の試合に際しましては、それまでのやじり合い、ののしり合いの野球の試合しか経験しなかった僕にとっては「たたえあい、励まし合う美しい試合風景」であり、本当に衝撃的でありました。
正直を言うと女性が沢山、しかもきれいなことにも感動してしまい、その後続いた長いツーリングの後野球部と陸上部を兼部することとなりました。そのころの記憶では、川端さんは特に大学院の実験の終わったあとの夜暗くなってからの練習が主で、星薬に多く生息していたヒキガエルを踏んづけたり、ネコに襲われたり、暗くて見えないのに足音だけが「ヒタヒタ」と聞こえることからいつしか「グラウンドに妖怪が出る。」と噂されたこともありました。
その頃には既に川端さんは長距離の実力者でしたが、初心者の僕には自分にできる可能性があるものとして「やり投げ」の練習を始めました。
せまいグラウンドのこと、薄暮のなかひた走る川端さんのすぐ近くにヤリが突き刺さってしまい、真面目に考えるととっても危険なことなのですが、川端さんは笑いながら怒るくらいで、なんか拍子抜けしたことを覚えています。
川端さんが後輩にとってどういう存在だったかということで僕の逸話をひとつ。
僕が初めて結婚を考えるまで愛した女性と別れることになり、涙が止まらないし家にも帰りたくないと思ったとき何故か茨城の川端さんの家まで話を聞いてもらうために三時間くらいかけて行った記憶があります。
実は翌日地元のハーフマラソンに出場する予定だったらしく、おそらく大変迷惑だったのでしょうが、笑顔で迎えてくれました。
翌日サポート業務で散々こき使われたことは言うまでもありませんが。
卒業後も会うときはいつもジャージ。アパートにも数え切れないくらい泊めてもらいましたが、洗面台やお風呂の使い方もいつも口うるさく、とにかくきれい好きな人でした。
あのキープ歯ブラシは今いずこ?
話は前後しますが、大学院卒業後某製薬メーカーに入って地元に帰りましたよね。
でも結局陸上がしたいということで、上京されました。
そのときの引越しも荷物が少なかったことで私の車一台でお手伝いしたことを覚えています。
その時の昼食も焼肉で、本当にビールと焼き肉が好きな人でした。
その当時は複数の人間と「趣味のため会社をやめ、上京することには反対だ。」と批判的なことを言った記憶があります。
ようはいつまで大好きな陸上で一線に立てるのか、そのために仕事を捨てて大丈夫なのかと。
今思えば、僕達は随分老けた考えをしていたんだなぁ、川端さんがそんな意見を無視してくれて良かったと思っています。

 上京後はいくつかの調剤薬局を経験され、最近はかなり忙しいと聞いていました。
自分としても忙しさでは負けないと思っていたものでしたから「考え方でなんとでもなる。会社に飲みこまれたら終わりだ。自分のペースを見失わないようにしないと。」などとなまいきにアドバイスしたところ「いや、そういう次元じゃないんだ…」とあきらめたような様子でした。
僕は川端さんが血圧が高いなどということも知らなかったし、その後川端さんの実家に押しかけて、お姉さんから最近の様子を聞いて、すべて一人で抱えたまま、旅立ってしまった川端さんを、あまりに水臭いと思うと共に、あまりに川端さんらしい、とも思い、なんともやり切れない気持ちを持ち続けています。
川端さんにはいろんなことで、しかられたり、たしなめられたりすることばかりでしたが、陸上の成績のことではなんとか認められていたような気がします。
いずれまた再会するときにはもっと他のことでもほめてもらえるよう、40になった僕ですが精一杯これからの青春を謳歌して、あの世で焼肉をつっつきつつビールを流し込んで、カラオケを歌いたいと思います。
川端さん、本当にありがとうございました。

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