川端君のこと     久島和夫

 川端君が初めて田園クラブに登場したのが1982年9月15日と聞いて、古い練習日誌をめくってみた。
当日は藤沢で新体連の大会があり、私は5000mの決勝を走った後、800mの予選・決勝を走っていた。(なんてタフだったんだろう。)
 今でも練習日誌を継続的につけてはいるものの、レースの時以外に所感を書き込むことはほとんどなくなってしまったが、当時は一言二言書いている日が多い。川端君の名前が最初に出てきたのは同年11月28日である。この日は日曜日であったが、翌週の奥多摩駅伝の選考会として、千駄ヶ谷で5000mのタイムトライアルをやっている。この日の所感には次のように書いてある。(原文のままのため敬称略。) 「三宅、川端に次ぐ3位をねらっていたが、ふくらはぎのシンに疲れが残っている感じでスピードに乗れず、室井、成田にも抜かれて5位で辛くもAチーム入りを果たした。」
 ちなみにこの時の私の記録は16分33秒であり、15分台半ばの記録を出していた川端君とはずいぶん差がついたのではないかと思う。翌週の駅伝本番では、三宅、川端君、成田君、私、室井、赤坂さんというオーダーで走り、25位であった。

 駅伝には常に参加していたような気がする川端君であるが、1983年3月20日の武相駅伝、同年7月31日の富士登山駅伝のメンバーには入っていない。なお、田園クラブの富士登山駅伝参加はこの時が最初であった。翌年8月5日の富士登山駅伝では、私が1,11区、川端君が2,10区を走り、たすきの受け渡しをしている。復路では繰り上げまできわどかった。

 駅伝のほか、個人レースでも何度も一緒に走っている。トラックよりはロードレースが印象に残っていて、府中多摩川マラソンの20kmでは前半からだんだん遠ざかっていく川端君の背中を見ながら走るのが常だった。私の場合、20km以上のレースを走ると、内臓が疲れて少しのビールでも悪酔いしてしまうことがあったが、川端君は(こちらが飲めないので自分も控えめにしてくれていた)平気で飲んでいた。

 エピソードとして思い出すのは「シャワー」である。合同練習の後にしろレースの後にしろ、川端君のシャワーは長かった。風呂のないアパートに住んでいるので、銭湯代を浮かすためだと言っていた。ふだんでも、春から秋はアパートのベランダの水道で体を洗っているとも聞いた。もちろん水である。合同練習後に飲みに行く店はだいたい決まっていたので、川端君を待たずに店に向かって歩き出すのが常となった。清潔であることに対する思い入れはビールに勝っていたわけである。

 今月の会報に載せてもらったように、川端君の命日である7月28日、私は鎌倉選手権の40歳以上3000mに出場した。スタートからずっと2番手につけ、残り500mを切ったところで前に出て、そのまま逃げ切ることに成功したのだが、このような展開となったのは、レース中にずっと以前川端君から聞いた言葉を思い出したためである。「5000mはラスト500mが勝負ですよ。」と言われたのがいつどこでだったか覚えていないが、とにかくここで勝負をかけてみよう、という気になり、やってみたら相手があっさり後退した。なぜちょうどこの時に思い出したのだろう。
虫の知らせであったのかも知れない。
 合掌。

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