さようなら川端さん      記:小野里02.08.13

 私が初めて川端さんと会ったのは88年6月5日、東京都民体育大会の駅伝会場となった大井埠頭でした、この時私は品川区チームの4区を走りましたが、同じ区間の目黒区のランナーが川端さんでした。
 まだお互い名前も知らない間柄、タスキを受ける前中継ゾーンに立っていて川端さんと目が会った時、彼はあの人懐っこそうな笑顔で私に軽く頭を下げました、私も挨拶を返しながら、童顔で色白の外見を見て、内心「こんなヤツ一発で突き放してやる」と思っていたのですが、品川区と目黒区が競り合ってタスキを受けた後、突き放すどころか、追走するのが精一杯!川端さんもしつこく私が食い付いていたので、何度も後ろを振り向きながら走っていましたが、最後まで追いすがって走った結果、二人とも8人抜きを演じ、両チームとも8位以内の入賞を果たすことが出来ましたが、見た目がかわいく、ランニングフォームはメチャクチャで、ちっとも速そうに見えなかった川端さんを抜けなかったことが心残りでした。
 
 時が巡って1990年は、私が練習の根城にしていた織田フィールドが全天候トラックへの改修工事で使えなくなり、練習場所を駒沢公園陸上競技場に替えたところ、ここで練習ををしていた田園クラブのみなさんと知り合いになり、6月ごろから田園クラブの練習に加えてもらうようになりました。
 そしてここで川端さんと再開、川端さんも都民駅伝のことはよく覚えていて、あの時は、当時の私の外見(160cm50k)から「こんなちっちゃなヤツに負けるはずがない」と思いながら追走して来る私を振り切ろうと必死だったと話していました。
 そして、お互いに童顔だったので、駅伝の時は相手を「こんな小僧」と思って見ていたのですが、話してみたら誕生日は13ヶ月私が早いだけ、5000mベストタイムでは川端さんが私を7秒上回っているだけと、歳も記録も似通っていた川端さんとは、よき練習仲間で飲み仲間となり、住んでいる場所も近いため、練習後に終電過ぎまでカラオケで騒ぎ、夜の白白と明ける中、二人で渋谷から家まで歩いて帰るなど、いつまでも青春気分を満喫していました。

 なりふり構わぬ腕振りと苦しさに顔をゆがめながら走る姿から「バタバタさん」のニックネームがついていましたが、トラックでは滅法強い川端さんでした。でもロードやクロスカントリーになると、何でこんなになっちゃうの?と思わせるほど脆いところがあり、高尾〜陣馬のクロスカントリー練習では、後半行方不明?になったり、途中でうどん食べてたとか、逸話をたくさん作りました。極めつけは高尾〜陣馬の練習を逃れるために言った「親の遺言で高尾に行っちゃぁいけないんです」これを言った当時は、川端さんのお父さんもまだ存命している時でした。

 ロードでは脆いと言っても、結果はキッチリ出しました。91年の信毎マラソンで2時間36分18秒の自己ベストを出し、翌92年は四大マラソンの一つ「別府大分毎日マラソン」に参加。この時は、田園クラブからは三宅さん、室井さん、小野里も出場し、応援には村尾さんが駆けつけ、ちょっとしたツアーになっていました。
 このレースでは、マラソンベスト記録では私が川端さんを7分上回っていたので、絶対負けないと思って先行していたのですが、30キロ付近で逆転されてしまい完敗しました。
 私のペースが落ち、苦しんでいる所に追い付いた川端さんは抜きざまに「小野里さん大丈夫?付いてこられますか?」と声をかけてくれました、このペースじゃ35kの関門を超えられない、そう心配してくれたようでした。自分だって30キロを走りぬいて一番辛いところを走っているはずなのに、それでもチームメイトを気遣って声をかけてくれたのは、川端さんならではだと思いました。

 96年頃からは、私が坐骨神経痛で思うように走れなくなってしまいましたが、それに合わせたかのように川端さんも故障がちで思うように走れなくなっていたようでした。
 お互いに納得のいく走りが出来なくなってからは、飲んで出る話題はお互いの全盛期の話と、映画や軍隊の話題、私の父親や叔父達はほとんどの人が旧陸軍兵士だったこともあり、その手の話は結構聞かされていたので、この分野でも川端さんと私は話が合っていました。
 このところ、仕事も忙しいようで織田フィールドに顔を出すことも少なかったのですが、8月4日の富士登山駅伝のため、7月24日の水曜日は遅れながらもグラウンドに現われ、練習を一人で始めたので、昔を思い出し、400m1本を川端さんに引っ張ってもらったのが、私と川端さんの最後の練習になってしまいました。
 練習やレースでずいぶん競い合った仲なので、故障回復もどちらが先になるのか勝負するつもりだったのに、川端さんは一人で先に、もう二度と勝負の出来ない遠い所に行ってしまいました。

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