追悼 川端君          岡田真晴

8月1日に訃報が僕のところにきたのは警察からだったが、何とそれは財布に入っていた陸協カードが元だった。普通カードなんか持ち歩いていないのに、彼は財布にカードをいれていたのだ。それほど陸連のメンバーに誇りを持っていたのかと、つい「彼らしいな」と思ってしまった。と同時に「田園クラブ」を残すことは彼の遺言のようにもなってしまった。
8月2日荼毘に伏すとき立ち会ったのは、急と言う事もあり身内以外では僕だけでした。控え室でお姉さんたちが言った言葉が印象的でした。クラブ会報と添付された写真を見て「これじゃ帰ってくるわけないよね、どの写真も楽しそうだもん」どうやら彼は東京での生活を全く実家の人に話していなかったらしい。
彼と最初に会ったのはベストを出した82年の5部対抗あたりだが、印象に残ったのは83年の河口湖マラソン(陸上歴では84年だったが83年のようです)で帰りに会ったのが最初である。85年になると彼がつくばに就職したので練習には顔を出さなかったのですっかり忘れていたが、科学博の最終日なんと会場でばったり会ったのだ。向こうから「岡田さん」と声を掛けてきたが、思わず(クラブ会報を書き始めた頃だったので)連絡先と練習を東京体育館でやっているので来てくれと話した。それから何年か彼はつくばから東京までよく練習にきていた。
今でも忘れられないのは、88年7月9日の夏の暑い夕方、当時土のトラックだった織田フィールドに練習にきたのは僕と彼だけだった。当時僕はクラブの3000m練習で10分が切れずにあえいでいた。彼がそのことを聞いて「岡田さん引っ張りますよ」と例の調子で言ってくれた。1000m、2000mと3分20秒をちょっときるいいペースで走りゴールした瞬間思わず喜んだ。「9分55秒」。帰りは二人で乾杯し、夏の暑さもプラスして本当においしいビールでした。
陸上選手にとって最もうれしい時はやはり自己新を出した時である。どういうわけかその後も僕のトラック種目のベストの時いつも彼がかかわっているのである。90年の5000mの時は成田君と彼と3人で奥多摩の選考レースだったし、92年の一番うれしかった1500mの時も小松君のペースメーカーだったが彼がタイムを取ってくれた。そして一緒に喜んでくれた。
楽しい時ばかりではない。彼が駅伝のメンバーキャンセルや走順で悩んでいた時、一緒に三軒茶屋で仕事をしていたこともあり飲んで愚痴を聞いてやったりしたこともあった、それでも彼は駅伝が好きだったようで、1人でも走れない人がいると強引に人数を集めて2チーム作るところがあった。
 弔辞でも話したが映画「炎のランナー」の最初のシーン。1924パリオリンピックで100m金メダルを取ったハロルドの葬儀で友人の400mHのリンジーが思い出を語る。そばではもう一人残っている3000m障害のモンタギューがいる。いっぱい思い出を作って老人になったらあんなふうになれたらと思っていたのに余りに早過ぎた。お爺さんになっても君のことはけっして忘れないだろう。

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