川端さんに関する思い出  記 8月12日  浅井 健一

私が田園クラブの存在を知ったのは小野里さんと知り合いになってからです。その話はここでは省略しますが、土曜日の夜に織田フィールドで練習していると聞いて、93年1月に初めて練習に顔を出し、小野里さんを見つけだしました。もっとも自分の練習はクラブの練習メニューではなく自分のメニューで練習しました。
 川端さんと出会ったのはその日が最初です。確か2000m×4本を6分20秒くらいで最後までこなしたと聞いて、「すごい実力のある人だなあ」と思ったのが強烈な印象です。その日は他に誰がいたのかよく覚えていませんが、結構いたはずです。少なくとも松田さん、岡田さん、村尾さんはいたような気がしますが、何しろ長年のつきあいでいつもいたような人ばかりなのではっきりしません。飲み会もみんなビールをたらふく飲んでいて、川端さんも同様でした。なんとよく飲む人たちだろうと思いました。
 それ以降、次の日にレースのある日を除いてほぼ毎週土曜日はつくばからはるばる織田フィールドに練習に行くようになりました。(岡田さんの書いてくれた川端さんの陸上歴を読むと、川端さんもつくばから織田に通っていた時期があったんですね。)そのころは上記のみなさんも元気に練習されていてたいてい4〜5人は集まっていましたし、人数の少ない時でも川端さんはほとんど必ずいました。そのころも既に結構忙しかったようですが、すぐに来れないときでも練習の終わる頃までにJogで駆けつけて来てました。練習後はいつも馬鹿話等をしながら楽しく飲み会をやってましたが、逸話も数多く聞きました。酔っぱらって中央線で1駅乗るはずが気がついたら反対に向かって高尾だったとか・・・(実はそういう逸話に事欠かないクラブなので川端さんの話かどうか今となっては100%の確証はないのですが・・・)
土曜日の練習ではよく川端さんと一緒にスピード練習させてもらいました。今はなかなか出せなくて困っている5000m16分台を当時は当たり前に走れたのは川端さんを始め一緒に練習したみんなのおかげです。練習にしろ、新体連などのレースにしろ、全盛期とまではいかなくとも川端さんの強さの一端はうかがい知ることができました。川端さんは飲むのが好きなのが度を過ぎて、レースの前夜に二日酔いになるまで飲んで吐きそうになりながら新体連の5000mを走ったなんてのもあって、もう少しコントロールすればもっと走れる人なのになあと思ったりしてました。武蔵小山駅前に引っ越す前の古いアパートに一度、駅前に引っ越してから一度、川端さん宅に泊めてもらったことがあります。養老乃瀧でさんざん飲んだ後なのにまた武蔵小山でステーキ屋とか行ったり、アパートでビールを飲んだりしてました。近くのファミレスへ朝食を食べに行った時も川端さんはジョッキを頼んでいました。本当にビールが大好きな人でした。
飲む量を抑えることに関しては意志の弱かった?川端さんでしたが、走ることに関しては、一端言い出すと譲らない面もありました。93年8月の富士登山駅伝は私も同駅伝初出場の記念すべき大会なんですが、山頂区予定の人が来なくて、川端さんは急遽「オレが走る」といい出し、川端さんの山での弱さをよく知っている周りの人たちが止めるのも聞かず(廣田さんは「私が走りますから」とまで言ってたのに)とうとう山小屋に上って(終了後「高山病で気分が悪かった」なんて言っていたのに)山頂区を走ってしまいました。1時間以上かかった上にTVに堂々と映って増田君を怒らせてしまったようですが、そのときのビデオは今となってはたぶん数少ないと思う川端さんの貴重なレース映像です。私と増田君のほかに、あと誰が持っているのかな?
川端さんと直接たすきをつないだ(たぶん)唯一の駅伝レースは95年12月の奥多摩です。練習不足とか言いながらも3→4区の中継点でラストの奥多摩駅前広場の急坂をすごいきつそうな形相で追い込みながら上ってくるのを見て、やっぱりすごい人だと思いました。
最後に川端さんと飲んだ(会った)のは、昨年9月末に会議で東京に泊まった時に、小野里さんを含め3人で戸越銀座駅近くの養老乃瀧(戸越でも養老乃瀧とは・・・やっぱり田園クラブらしいですね)で飲んだ時です。さらに忙しくなってもう練習にもほとんど顔を出せない時期だったはずですが、颯爽とJogで現れた川端さんを見て、練習さえできればまだまだ走れそうな感じに見えましたし、飲み会でもいつも通りの川端さんでした。少々ビールは控えめで別の飲み物に行ってましたが。まさかそのときが川端さんの見納めになるとは思いませんでした。社会人の宿命で、出会ってから十年近くたって次第に責任ある立場になり、年々仕事が忙しくなるのはしょうがないのですが、せめて少しでも練習のできる環境に戻っていただいて、もう一度川端さんの元気に走る姿を見たかっただけに、残念です。
 順序が逆ですが、川端さんとの最後のレースは98年のつくばマラソンです。川端さん自身は練習不足で3時間16分かかってしまいましたが、本来はもっと走れるというところをいつか証明してもらいたかったという思いです。レース後、2時間40分を切った村尾さんと3人で飲みましたが、いつも40kmすぎて吐いてしまって惜しいところで2時間40分切りができなかった村尾さんに対して、(マラソン前にたくさん食べるというやり方でなく)「たくさん食べないほうがいい。そのほうが吐き気が来ても吐くものが腹に残っていないから。」という趣旨のアドバイスをレース前にしていた話を聞いて、さすがと思いました。
川端さんが相当の高血圧だったというのは実は亡くなったあとに知りました。今回の富士登山駅伝で急遽走ることになっての練習で体に無理な負担がかかってしまったのかもしれません。本来なら私も参加したいところ、隠密にレースに出場せざるを得ない状況でTV中継のある日曜の駅伝はやむなくあきらめましたが、自分が参加できていれば川端さんに負担をかけることもなかったのではと思うと残念です。
 本当に惜しい人を亡くしたという思いです。記録も残した人ですが、記憶に大いに残る人でした。ご冥福を祈ります。

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