川端さんとの思い出         増田昌彦

私がもっとも記憶に残っているのは、94年の富士登山駅伝です。
私が5・7区、川端さんが6区でした。当初走る予定でなかった川端さんでしたが、都合
の悪い人が出て、監督の責任感から?山頂区を走ることになりました。
この年で自分の田園クラブでの5・7区は最後になりましたが、最も登りに情熱をもって
取り組んでいた時期で、川端さんにタスキを渡した後、待てども待てども川端さんは戻っ
てこなくて1時間以上かかってやっと戻ってきてため、腹が立って、自分は川端さんから
タスキをぶんどったと記憶しています。
さらに川端さんに対して腹が立ったのが?、テレビ放送を見たら、川端さんが山を下って
くるかなりの時間テレビに映っていたのに対し、私は後ろ姿がほんの一瞬映っただけだっ
たことでした。(まだこの時のビデオは持っています!!)
しかしこれも、監督自ら山頂区に挑んだため、テレビで取り上げられたのかもしれません。

駅伝前日から高山病で頭が痛いと嘆き、顔が膨れてしまっていて山を走らせるのは忍びな
い川端さんでしたが、タスキを絶やさずに頑張っていただけました。
良くも悪くも、自分にとって最も記憶に残る川端さんの思い出です。

もう一つの思い出は、96年3月の多摩湖駅伝です。
川端さんは田園クラブ、私はコニカランベルで別チームだったのですが、某氏がゼッケン
をそっくりそのまま取り違えて配ってしまったため、2区を走った川端さんと私のタイム
が逆になってしまい、川端さんが区間賞獲得、区間新のおまけつきでした。川端さんにお
めでとうを言いましたが悔しかったため、私はその雪辱を果たすべく1年間トレーニング
を積み、翌年の同駅伝では今度は自分の名前で区間新を達成しました。

近年は川端さんと同じレースに出ることがほとんど無かったのですが、本年2月の東京マ
ラソンではうちの妻や子供を連れて品川駅まで応援に来て下さったり、6月初めには川端
さんのところに泊めてもらうなど、いろいろお世話になっておりました。
飲み仲間が減ってとても残念ですが、川端さんのぶんまでお酒を飲もうと思います。
92年以来、ちょうど10年間のおつきあいでしたが、どうもありがとうございました。
あの世では、最近あまり飲めなかったビールをたらふく飲んで下さいね。

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